昭和四十七年八月二十四日 朝の御理解
御理解 第二十六節 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心をせよ。信心に連れがいれ           ば。死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に           日に生きるが信心なり。」
 信心に連れのうて参る。連れがなからなければお参りが出来ない、というような事ではなくて、どこまでも一心を神様に向けていくのであるから、連れがあろうがなかろうが、神様に向こうて来るのだという意味の事であろうと思います。
 ここでは激しい言葉で死ぬるにも連れがいろうがと、それはどんなに親しい仲、どんなにそれは親であろうが子であろうが、ついていかなければならんというなら誰だって逃げます。
 私は今日、この二十六節を信心に連れはいらぬと。神信心もよいけれども、やはりお金をいりゃ暇もいる。私しゃそういうようなふうにここは頂いて頂きたいと思うですね。決して、お金という連れがなくても、信心は出来るという事。いやむしろ、それに只、義理とか人情で連れてくる、そんならお金であったり、お供えであったりでは無意味な事であると思う。
 金がなからなきゃ暇がなからなきゃ信心が出来んというような意味で、ここでは信心に連れはいらん。そういう事はない。信心はもう心ひとつであること。その心ひとつがいうならば、お初穂にもなりゃ、足を運んでお参りをするという事にもなるのです。心ひとつです。
 心がお参りさせてもらおう、心がお供えさせてもらおうという思いが発した時に、はじめて信心が出来る。信心になる程連れはいらん。その証拠には、さあどんなにお金が好きな人であろうが、死んだ時に、あの人はお金が好きじゃったけん、お金なっとん入れてやろうと。それは仏教では六文銭なんかよく入れます。
 けれども、どんなにお金が好きであったから、財産があったからというて、それこそその連れの方が逃げてるでしょうが。もし入れとると知ったら出されますよね。連れの方が逃げておる。
 そこで結局日に日に生きるが信心という信心をしておかなければいけないと思う。 私は今日いろいろとお知らせを頂いてから、こんな事を考えた。神様はまあ、あの手この手でお導きを下さる。御理解だって、こうやって二十何年間聞いて頂いて、成程同じような表現はもう一日だってない。
 けれども、なそんならせんじつめると同じ事だというのです。信心は本心の玉を研くものぞや。信心は日々の改まりが第一ぞという事ばあっかりですから。何とかまちって変わりばえのした、いうなら教導というか、表現はないもんだろうかと。
 あんまり同じような事ばっかりだから、そんな事を私は考えた。もう合楽にまいれば、もう改まれという事じゃろう、研けという事じゃろう。もう確かにそれだけの事 今日私は御祈念仲に頂いたのにね、それこそ、鬼じゃろうか邪じゃろうかというような顔をした人がね、ある人にむかって、まあいうなら、剣の道を教えておるという感じ。片一方に習おうと思うて一生懸命、片方も伝えたいとう一心。
 もうそれこそ、この一手を伝えたいばっかりという事なんです。そういう御心眼を頂いたというたら、ははあ、親先生が何を言おうとしてあんなさるのか、皆さんわかるでしょう。そんなにです、同じ事ばっかり。
 例えばそれは人間関係でもそうです。例えばそれは親子の関係でも、夫婦の関係でも、悩み苦しんでおるというなら同じ事です。
 それが隣近所との関係というても一心です。それこそ、鬼じゃろうか邪じゃろうかというような顔をして私に迫ってくる。
 だからあの人は本当に鬼じゃろうか、邪じゃろうかと思うてそれから逃げたい一心で、神様どうぞというような事では、そうじゃない、その鬼じゃろうか、邪じゃろうかというそんなら、面をはずしたらです、向こうにはそれこそ神様の神愛あふれるばかりの慈顔がある、尊いお姿がある。そしてこの一手を教えたいばっかりなのだという事。
 お互いも信心の道を覚えたいというておる。参っても来ておる。精進もしておる。 だから、いよいよ本当の一手、この一手だけを体得しておけば大丈夫と。だからこの一手というのですから、成程、幾つでもあるはずはないです。
 それを例えば子供が親に向かって何というか、もう子供と見ておるわけです。それは子供じゃぁない。子供に神様が鬼か邪のような面をつけさせてござるだけ。そして日頃願っておる、本当の信心がわからせたい。
 先日もある人から手紙が来た。それこそもうそれを読ませて頂きよってから、涙がこぼれるごたるお手紙じゃった。親先生どうぞ、そのものズバリに私の助かる道を教えて下さいと最後に結んであった。先生、私に信心のコツを教えて下さい。どこをどうと教えて下さいというわけなんです。
 どうしたならば、このような難儀な事になってくるのじゃないでしょうかと、人間関係で。だからその人に、そんならそのものズバリでもし私が教えるなら、今日のこの御理解です。
 ああたは夫婦仲が悪い。主人の顔がそれこそ、鬼じゃろうか、邪じゃろうかとみえておる事がです、だからああたが、本当におかげを頂きたいというておる、本当にです信心の道を体得したいと言うておるならね、この一手を頂きたい、教えたい、伝えたいばっかりにです。さあこの打擲というか、いわゆる、チョウチョウハッシと打ち込んでくるのをです、それを見事に受けぬかせて頂くというか、受ける事ができたらね、もうそれで助かりなのである。
 それをあの人は夜叉のような人じゃ、鬼のような人じゃと、その人をいうなら、どうしてわからんのだろうかと、どうして難儀な問題じゃろうかと言うておる。
 だからそのものズバリ言うならね、あなたの肉眼には、鬼か邪のように見えておっても、それは神様のそのままのお姿であると。しかも、日頃頂きたいというておるこの一手を教え伝えたいばっかりなんです。
 もう合楽で私が二十何年間言い続けてきた事は、この事ばっかりなんです。いうなら、今日のはその御心眼に頂く姿が違うておるだけの事。
 それを、それこそ、どんなに打ち込んでこれらても、こられても見事にパッパッとこう、それこそ、チョウチョウハッシ、受けとめていけれる信心が出来たら、これを一つこの一つを伝えたいばっかり神様は。
 それをあの人がこう言うた、この人がこうしたというて、自分のそれを苦しみに悲しみにしてしまっておる。いっぺんでわからんなら二へん、二へんでわからんなら三べん、もういっぺんそこんところを通らせて頂きたいというくらいな気持ちが私は必要じゃなかろうかと思う。
 まあいうなら、鬼じゃろうか、邪じゃろうかというふうに申しましたけれどね、それとは今度は反対の場合だってあるのですよ。
 それこそお観音様じゃろうか、地蔵様じゃろうかというごたる顔をして、迫ってくる場合もあるのです。これはもうわかりません。
 だからこれは、決して、私共にこの一手を与えたい、体得させたい、ここに徳を受けさせたきという働きの中には必ずしも、鬼のような邪のようなというような事ではなくて、それとは反対、いわゆる苦しいとか辛いとかいうのじゃなくて、甘いものをもって、又鍛えて下さる場合もある。ですから、なかなか油断は出来ません。
 夕べ私はおもしろいお夢を頂いた。本当におもしろいお夢であった。ある人が私におもしろいところに連れていくという。だからまあ、好奇心も手伝って一緒にいった ところがそこには何というですか、闇の女とでも申しましょうか。そこにはその女の人のお母さんと兄弟がおるようなふうで、そのひと部屋に案内された。そして私を連れて言った人は、又別なところに遊びに行って、私をそこえ残して行った。
 その相手になるという女性を見とったら、なかなか私好みの女性なんです。そこで私はね、私も真っ裸になる、そして床の中に入ってから私が思いよる事です。
 本当に男から男に肌を許して商売をしておるという人達が、気の毒になった。可哀相になった。そしてまあ、私が床の中に入っとれば、下におりますそのお母さんというのにも、顔が立つだろう。だから何もかもすましたような顔をして出て、お金だけは払っていこうと思っておる。夢であった。
 おもしろい夢ですね。だから私は今日は、私共をね引いたり押したりして試して下さるという事は、私は夢の中で本当におかげで私は合格したという感じがしました。 そして自分で思いよるとです、私が嫌と言いきらん性分がこういう時に、こんな素晴らしい事になると思いました。
 友達なら友達が私はそういう悪紹介はしないよというたら、もう、その人のところへ大急ぎで傾向してるわけですね。友達がおもしろいところに連れて行くというたらそんなら行こうかと言っとるわけなんです。そして、こげんところに連れて来てとも言ってないわけです。
 心ではいつもそんなら家の中でも信心頂いておるから、ここは間違うてはならんというところをです、そんなら、それからと言うてその女の人には、下にそれこそ、鬼のようなお母さんがついておってから、お金どんとらんなら、又どんなにこの人がいじめられるじゃらわからん思うてから、そんなら一緒に寝たふりをしてから、そんならお金だけは、払うて行こうと、そういうようなお夢であった。
 いわゆる最近言われる大急ぎで傾向する。その人のところまでおりていくという事 だから友達はやっぱり私も普通の人間だなあと、やっぱ親先生もここだけには弱いなとまあ思ったかもしれませんけれども、その事は言わん。
 私しゃせじゃったなんて言うとらん。やっぱ裸で寝て、裸で出てきてから、いわゆるお金だけは払うて置いていこうというのである。
 そしてそんなら、私が嫌と言いきらん性分という事をですね、そういうような場合にも素晴らしい、嫌と言うとったら、その人は救われないとか助からないでしょうけれども、嫌と言いきたらん事が、そのようにして、まあいうなら、助けていれる事が出来る。金を払うという事は助ける事だと思うですねぇ。そういうようなおもしろいお夢を頂いた。
 これなんかは今私が申します、それこそお観音様じゃろうか、地蔵様じゃうかといったような顔をして迫ってくるというのです。
 だから必ずしも鬼じゃろうか邪じゃろうかという事ばっかりでない事がわかりますね。それとてもです、そんなら、この一手を与えたいばっかりなんです。
 その一手を体得させて頂いたら、そういう場合であっても、失敗をせんですむという事。今朝からの御祈念中に頂いた事の中に、もうひとつ、松葉杖をついておる。片方の杖は金の杖、片方の杖は木か竹のつえという感じなんです。
 勿論松葉杖ですから、一本足、そしたら横を人力車がパ-ッと走って行ったら、人力車の車輪でその松葉杖の足がちょっとさわったけん、クリッとひっくりかえったところ。こういうお知らせも皆さんすぐわかるでしょう。特に片一方の杖は金の杖、片一方の杖は木か竹の杖というのですからね。
 木や竹は折れる、神を杖につけば楽じゃとおっしゃる。金が連れでなけれはならない。人が連れでなければならないという事はそれなんです。だからその金がはずれた時には、その人がはなれた時には腹を立てんならん。又金がはずれたら、さみしい、悲しい思いをせんならん。
 人力という事は人間がちょっとしたらという事でしょうか。もうそこでスッテンドンにひっくりかえらなきゃならないという事です。
 私共は金を杖についとらんごたるけれども、木や竹はついとらんようだけれども、金や竹をついて、いうなら、不自由じゃない人より一つ多かごたる、三本足じゃから だからお金をもって、安気安穏のようにして過ごしている人は、そういうふうな考え方じゃないでしょうかねぇ。俺は人より一本足が多かぞというごたる生き方をしてる。けれども、ひとたび、そんなら、それに天災人災でもいいですよ、何かがあって裸一貫にならなきゃならん時には、もう、よろよろとして、歩く事は出来ないです。 信心とはこの二本足で、しっかり大地を踏みぬくような生き方です。金がなくても人がなくても、頼るものがなくても、只、神様一心にすがっていけば、歩いていけるんだという確信を積んでいく以外にないのです。信心とは。
 それに人がついてくるのであり、それに金やら物やらがついてくるのである。おかげでなからにゃ駄目。
 自分が人を獲得しよう、自分の働きで金を儲かろうと、そういう金はそれば丁度如何にも安穏のようです。それが成就すれば・・・・。
 けれども、それはひとたび、そんならその金がなくなった時には、もう彼はよろよろで歩けられんという事。その両方の松葉杖をとられたら、それこそ一本足で、ピョンピョン飛んでさらかにゃいかんという事。不自由この上かぎりない事である。
 私共はどこに行ったって、この神様さえ頂いとればという信心をね、いよいよ頂かせて頂くという事がです、私は日に日に生きる信心だと思うです。
 又、そういう稽古を目指すという事が日に日に生きるという事だと思うです。それには、やはり自分の我情我欲をはずしていき、いうなら自分を空しゅうしていくという事。自分を無くしていくという事。そこに、次に新たな生まれておるものがある。 成程、日に日に生きるが信心なんです。もう、ひとつ、あるからお願いさせて頂きよったら頂いた。大きな箱を、朝鮮人が運ぶように頭の上に乗せて運びよる。だから中心に真ん中にすりゃ、片一方の手を当てたくらいで楽に行けるわけなのです。
 ところが前の方をこうだして、後の方をこうしとるから、後の方をこう押さえてから、もうちょいと歩きにっかごたるふうで行きよるところの御心眼じゃった。
 おわかりになるでしょう。いわゆる人間心でいくというか、頭でいくという事なんです。私共の日常生活の上には、やはりそう神ながら、神ながらとばかりはいけない事もありますでしょうが。ましてや相手が信心がないという時には、人間こころでいかなければならん時もあるし、又頭で考えていかなけれはならん時もあるでしょうが けれどもね、決して中心をはずすなという事です。中心という気とは心の中という事。真ん中にこうやって置けと。こうなると人間心もまた、頭でいくという教学的な意味での事も入ってくるでしょう。
 人情も入ってくるでしょう。人情はいらんという事はない人情を使わなければならない時もある。けれども、その中身というものがです、心というものが中心でなからなければならないといったような事も今日頂きました。
 そうしてです、成程、表現はそうして違いますけれども、結論致しますと、もう中心、心ひとつにかけられておるんだぞと、本心の玉を研く以外にはないんだ、改まる以外はないんだという事になるわけです。
 けれども日常生活の上に私共の今日頂きますよう、様々な角度から頂いてみると毎日々二十何年間頂いてきておって、その事が完璧に出来ていないのに驚くぐらい。
 成程神様が同じ事を繰り返し々それがお成し事であっては皆さんが、いうなら、倦怠が起こるだろう、いわゆる飽くから神様が、はあい今日の御理解は有難い御理解じゃったと、何、有難いじゃない同じ事なんだ。
 自分の心がいよいよ研かれ、改められていってはじめて、心というものは自由自在に使う事が出来るし、又は自由自在に、どのような場合であっても、それこそ、チョオチョオハッシと打ち込まれて来ても、それを見事に受けて応えていく事が出来るのです。私共は力が欲しい。お徳が欲しい。本当の信心がわかりたい。これはお互いにそれを思うておるのですから、そんならと神様が立ち上がって下さってです、どうしてこんな難儀を思われるような難儀をもって、お互いの前に現れて下さる。又は迫って下さる。
 そして、それを受けとるコツというか、この一手さえ覚えておってくれればという事、その一手とはどういう事かというと、もうあるものは神愛のみだという事をわかる事。
 それをそんなら頂くひとつの方便として、御事柄として受けていけ、成り行きそのものを大事にしていけという事にもなるわけです。
 今日はこの二十六節のいうならば、いわゆる変わった角度から頂いてわけですね。人間の連れというのじゃなくて、金やら物やらという連れ。
 いうなら、金の杖とか、竹の杖がなからなければ歩けないという人は一本足のような人ですよ。もしその杖をとられたら、もうそれでひっくり返らんならん。そして両方取られてしもうたら、もう一本足でピョン々飛ばんならんような寂しい結果に必ずなるです。ですから、そういうものは当てにしてはならん。そういうものは連れにせんがいい。一人信心せよ、自分自身の心の中に一人先生せよ。そこにです、日に日に生きるという事の信心の行き方が素晴らしいという事をです、こういう例えは難儀な問題をこのようなに、にこにことして受けられるような素晴らしい事だといったようなね、生き方を身につけていくという事。
 それにそんなら、金がついてくる、物がついてくるという事なんです。皆さんがそういう、死ぬるにも連れがいろうがと、皆んなが逃げておる。皆んなが逃げておるものを追いかけて、無理に自分のところに例えば置いておるようなもんですよねぇ。
 金儲けの名人という人達は。そこそ手段を選ばない。金が儲かるこつなら。そげんして逃げよるとを追いかけて行ってから連れてきたつじゃけん、この金は又、逃げよう逃げようとするわけです。
 だから長者三代なしという諺の通りになってくるのです。そういうのを逃げるのじゃない、向こうの方からやって来るというのを身につけて為にもです、私は今日の御理解をよく頂かせてもらって、まあ結論するとです、結局そういう信心を身につけていく為に、まあ、どんなに誰が鬼のごたる顔をして邪のごたる顔して、どんなに言おうが、今日はいっちょそれを見事に受けるぞと思うておるならですね、受けるです、やっぱり。ピシャッとして受けられる。思うとる時は。
 そればってん、決してこっちが当てにしとる時だけじゃないですから、もう思いもかけない時に打ちこんでくるんですから、鬼やら邪のごとしたのが。だからよろよろせんならん。
 そこでそれを受けとめれるものは自分の本心。一人信心せよというね、自分の心というものを、どんな場合でも、自由自在に受けこなせれるだけの心の状態というものを作る為には、研いておかなければ、改まっておかなけれは出来る事じゃないという事。もう、この一手を教え伝えたいばかり。
 ある時は、鬼か邪かのような顔をしてやってくる。場合にはそれとは反対に、それこそお釈迦様じゃろうか、観音様じゃろうかというごたる姿で迫ってくる時です、それを只、人が助かる事が出来る事さえの為には、自分を真っ裸になって入ってみる。 この人が助かる事の為ならばというような心が根本になからにゃ出来るこつじゃない。いや今度はどげなよか女が来たっちゃ絶対負けんぞと思うとる時だけはまあ、どげな内容かけても、こうやってやっていけれるわけです。
 ところがフイにやってくるんだからね、こればっかりは。こちらに油断のある時にやって来るのだもの。それには自分の心というものがです、改まる上にも改まる、研いた上にも研いて、もう、それこそ自由自在に体がこなせれる。心がこなせれるだけの稽古をやはりしておかなければ出来ないという事になります。
 その為にはどうでも、日に日に生きるが信心と言われる、そういう素晴らしい信心いわゆる自分いう者を空しゅうする生き方。それには我情も捨てよ、我欲も捨てよとこれなんからいよいよ自分を空しゅうする生き方なんです。
 そこから新たに生きる信心、日に日に生きる信心、過去というものを葬っていく信心、日に日に生きる信心が出来るです。日に日に生きるが信心なり。
                           どうぞ。